■ 『ものつくり敗戦』 横幹科学技術への取り組みが必要だ  (2010.4.12)




「ものつくり」と「匠の技」こそ日本の生きる道、というのが言い古された日本再生のテーマである。しかし、中国や韓国のアグレッシブな産業戦略――サムスンの躍進ぶりはどうだろう――を目の当たりにすると、日本は過去の成功体験に安住し、技術開発の本質を見失っているのではとの懸念が一層強まる。日本沈没は既に現実ではないか。

太平洋戦争の敗因のひとつに、兵器の質の問題があったと著者はいう。大量生産/大量消費というシビアな局面での技術が未成熟だったと――本書のタイトル『ものつくり敗戦』の由来だ。

大量生産は部品の互換性を前提としている。部品の形状や寸法が正確でなければならない。作業者の熟練の役割はできる限り切りつめられ、熟練は機械や装置に組みこまれるのだから。陸軍の三八式歩兵銃は職人が一丁ずつ部品を調整して作っていたという。部品の互換性が同一工場の製品の間にしかなかった。ゼロ戦の機体形状はきわめて複雑であった。一機作るのに多くの工数と熟練工の手を必要とした。これは総力戦兵器としての欠陥だ。

日本は数字にあらわれる攻撃力ばかりに目が向いた。兵の体力とか補給の容易さ、機動性、故障の起こりにくさや他の兵器との相乗効果などを総合的に考えた――兵器をシステムとして運用する思想と能力が欠けていた。

日本の技術は伝統的に、質の高い豊富な労働力を基盤とした労働集約型である。個人の能力に依存し経験を大きなより所としている。明治期の西欧技術のフォロー段階を経ても労働集約型へ投資が偏り日本は大量生産/大量消費の技術実現に後れをとった。戦後においても「機械からシステムへ」の枠組み転換を意識できずに明治期の古い技術のイメージのもとに出発せざるを得なかった。

産業革命は道具を機械に変えた。職人や野心的な発明家の経験や勘に依存していた技術開発は、科学が発見した様々の自然法則にもとづき、それを有効に利用するための計算や実験や設計を計画的に行う知的な活動となった。そして大量生産へとつながる。

大量生産は不確かさに直面する。ものを作るには、機構や仕掛けがすべて分かっていなくてもよいのだから。製品が複雑になることによって、開発プロセスや生産工程の管理も複雑になる。不確かさを減らし複雑さを処理するために、情報を整理してそこから戦略を選ぶ意思決定が、技術のあらゆる場面で要求されるようになる。大量生産と大量消費は情報化社会の生みの親である。

いま、日本の技術の弱点は、理論・システム・ソフトウェアの3分野にあると著者はいう。特に問題なのは、ソフトウェアの分野で日本は全くふるわないことである。ソフトウェアは完全に普遍的な技術で、いったん書かれた後は誰でも理解し使いこなせるものになる。
ある形状のノズルをミクロンの精度で深絞りする技術は、製作者個人の力量に属するものであり、他人が一朝一夕でマスターすることはできない。一方ソフトウェアはあるレベルの知識があれば誰でも理解できるし真似もできる。職人芸とは対極的である。

システムとは複数の要素が有機的につながってまとまりをもつ全体のこと。システムは技能を客観性のある論理によって置き換えることで機能を発揮する。複雑でしかも多様な数多くの要素を結ぶつけようとするとき、頼りになるのは論理である。論理はシステムを形つくる要素を結びつける絆だ。かつて日本には、新幹線の運行管理システムや鉄鋼の生産管理システムに誇るべきものがあった。いま日本にはシステム思考が根付いていない。

日本復活の道はあるのか、著者の提言はこうだ。
ひとつは理論をないがしろにしないこと。技術は理論になったとき完全な普遍性を獲得する。理論を学ぶことによって、分野の全体像を的確に知ることができる。理論を適用することによって技術的な壁を破ることができるのだ。

技や匠では現代の技術を理解できない。様々の技術分野の要素技術を結びつけることが必要であり、理論はそれらの結合を保証する原理を与え、システムはそのための枠組みを提供しソフトウェアは結びつきを具現する。

多分野を横断的に結ぶ技術、論理に基礎をもつ人工物の技術――システム工学、制御工学、ネットワーク、複雑系等々を重点的に推進することが必要だ。著者は横幹科学技術と言っている。


◆『ものつくり敗戦』 木村英紀、日経プレミアシリーズ、2009/3

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