■ 『久米宏です。』 ニュースステーションはザ・ベストテンだった  (2023-10-27)






久米宏には、そもそもニュースに強い思い入れがあったようだ。TBSの入社試験の最終面接で、「TBSに入社したら何をしたいですか?」と聞かれて、「最終的にはニュースをしたい」と答えていたそうだ。現代のいわゆる「ニュース番組」のイメージ確立に、久米宏ほど寄与した人物はいないのでは。



あの「ニュースステーション」の誕生がなかったら、いまのニュースショー全盛の時代はなかったでしょう。番組の骨格 ――ニューステーマの取り上げ方、コメンテーターの参加、選挙報道の視覚化とか―― これらのほとんどすべてが、ニュースステーションから、そのままのコピーではないか。

一方、久米宏が高らかに宣言した、「マスメディアは行政・立法・司法機関を監視し批判することが最大の仕事である」との心意気はどににいったのだろう。現代の首相会見に見る、白々しさ、記者質問へ真っ正面から回答しないという誠意のない姿勢、「丁寧に」という木で鼻を括ったような説明等々。メディアの毅然とした対応はいま失われているのか。
新番組「ニュースステーション」の企画は、黒柳徹子と組んだ『ザ・ベストテン』が真っ盛りの時代にすでに潜行してスタートしていたようだ。黒柳徹子に何の事情説明もできなかったのが、心苦しかったと久米は言う。テレビだけができる番組をつくろうと決めていた。テレビの特性は映像を伴う生放送にある。次に何が起こるかわからないというのが生の特性、テレビの本質だ。視覚に訴える情報を生で伝えるニュースとスポーツ、それがもっとも「テレビ的」ではないか。

新しいニュース番組は、「ニュースを伝える立場」ではなく、「ニュースを見る側」に立つことが第一だ。自分の役割はキャスターというよりも、視聴者代表の司会者だと久米は考えていた。まず「中学生でもわかるニュース」を、専門用語などを回避して、わかりやすい言葉を使うこと。中学生が理解できれば、ほとんどの人にわかってもらえるはずだ。
テレビ朝日は「ニュースステーション」に社運を賭けていた。しかし、初日(1985年10月)から視聴率は低迷する。転機となったのは、1986年のチャレンジャー事故報道とフィリピン革命の生放送である。いずれも生の映像の力を発揮した事件だ。マルコス大統領のフィリピン脱出からアキノ新政権の誕生まで、放送時間をギリギリまで使って、革命劇のクライマックスを刻一刻とリアルタイムで伝えた。革命劇が「ニュースステーション」の放送時間とぴったり一致したのだ。番組は低迷から完全に脱し、この夜から視聴率は上昇気流に乗り始めた。

日航事故の報道では事故の激烈さを強く視聴者に伝えることを考えた。事故機の座席表から犠牲者の年齢、性別、名前などはわかっていた。乗客・乗員それぞれを象徴するモノとして、誰もが履いている靴――犠牲者520人分をスタジオに並べたのだ。実際に並んだ靴を目にしたとき、520という数字がどれだけ途方もないものなのか、事故がどれほど凄絶なものだったかを訴えることができた。

ニュースは、話し言葉で読むようにした。美しい文章でも、かっこいい文章でもない。聞いてわかりやすい文章だ。だから、なるべく書き言葉を使わず、話し言葉にする。記者には「普段話す言葉で書いてほしい」と繰り返しお願いした。

キャスターのコメントがニュースの見方を変えることがある。ニュース原稿には何のニュアンスがなくても、キャスターが間を取ったり首を傾げたり、簡単なコメントをするだけでも、伝わる意味合いは根底から変わる。久米は、真正面から批判するよりも、皮肉ったりからかったりと変化球で勝負する戦略を取った。学者や評論家、ジャーナリストが使わない言葉を使おうと。久米のひと言コメントは自民党の反感・反発をかい、「捨てぜりふ」「悪ふざけ」「ニュースのショーアップ」などと批判されることもあった。

「ニュースステーション」が始まって数年間はバブル景気に向かうさなかだった。番組が成功したのは、バブルによって天井知らずの予算を使えたことが大きい。結局は、バブル景気の勢いに乗じて、成功したのだろうか。最終回は2004年3月、足かけ19年だった。


◆ 『久米宏です。 ニューススターションはザ・ベストテンだった』 久米宏、朝日文庫、2023/10

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