■ 『授業入門』 授業には冒険が必要  (2020.3.31)






斎藤喜博の名を知ったのは、どこかのテレビ番組であった。卒業式での「呼びかけ」を発案した人としての、紹介があったからである。さっそく、ウィキペディア(下記参照)で調べてみると、現在の教育論に大きな影響を与えた人物であることが分かった。本書『授業入門』は斎藤の代表著作か。巻頭には「授業への"モチベーション"を高める書」との紹介がある。

斎藤は、学校の教育でもっとも主要な場面をしめるのは、「授業」と「行事」であるという。組織的な構成的かつ創造的な授業によって子どもたちは、知識を自分のものにし、集団としての高い自覚を持ち、知識とか感動とかの質を変えていくようになる。そして、意図的であり構成的かつ創造的な行事によって、子どもたちは集団としての感動を持ち、さらに芸術的な感動を持つ。そのなかで子どものひとりひとりが、また全体が新しい創造の世界へとはいっていくようになるのだ。


行事」は演出されなければならない。毎年の卒業式を「呼びかけ」と「音楽」「舞踊」「演劇」などを使って行った。いままでの厳粛な卒業式とは全然違うものになった。感動的になったのだ。演出的にやるということを「こしらえる」と考える人もいるが、演出とはどこまでも固定化を防ぐために創造をし、みんなで新しい世界へはいっていくことだ。だから演出によって、行事の質が高まり、子どもの創造力が生み出される。

授業」は真剣勝負である。よい授業には、すぐれた芸術作品と同じような、緊張と集中がある。そこでは、学級のどの子どもも、自己を発揮しわき目もふらず生き生きと活動し、みんなの力で次々と新しい発見をしていく。授業のめざすものは何だろう。知識は人間の諸能力を発達させる基礎。その知識は、民族の文化遺産のなかの、すぐれたものだ。授業は、この知識を確実に子どもに受けつがせること。そういう獲得、発見、認識の作業のなかにおいて、自分たちの論理性とか、思考力とか、創造力とかをつくりあげていくことである。

授業が生きて働くようなものになるためには、教師の人間の問題が大きな要素となる。教師が、自分自身を大切にすること。実践を通して教師の「人間」は磨かれるのだ。生き生きとした学級は一人一人の子どもと教師とが、それぞれ別々に一対一で結ばれるのでもなく、教師と全部の児童とが一対何十人というように結ばれるのでもない。子どもと子どもとが交流しひびき合い、教師とひとりひとりのこども――学級全体が一つのいのちを持ち、目的をもって力動的に学び合っていくものなのだ。

教師に必要なことは知識の正確な習得。勉強する、本を読む、自覚と謙虚さを持って実践に取り組むことだ。知識をそれぞれの場に応じて縦横に駆使したとき、子どもたちは生き生きと学習する。また解決しないむずかしい問題につきあたっても、つき破っていくようになる。授業には冒険があり、独創的であることだ。子どもの具体的な経験から得た意見を、科学的な認識へと結びつけ、引き上げていくことができるように。子どもたちにじっくりと考えさせ、子どもたちの考えが熟しきるのを待つ。


◆ <人と教育双書>『斎藤喜博 授業入門』 斎藤喜博、国土社、新装版1刷 2006/10

【ウィキペディアから】 斎藤喜博(さいとう・きはく): 1911年〜1981年。群馬県の出身。小中学校の教師を経て41歳で群馬県南端の島小学校の校長となる。ここでの11年間で、「島小教育」の名で教育史に残る実践を展開した。毎年、授業と行事(合唱、体育発表、野外劇等)を中心とした公開研究会を開いた。全国から1万人近い教師、研究者が参加した。斎藤に共鳴する学校は全国にひろがり、各地で、教師と子供たちを指導し公開研究会を開いた。定年退職後も全国を教育行脚して教師と子供たちの指導を続けた。
50年を越える教師生活・研究者生活で一貫して追求したのは「授業」であった。授業はすぐれて創造的な仕事であり、創造的な教師にしかできないものであると、主張した。
今日の教育実践を語るターム ――授業の創造、教師は授業で勝負する、ゆさぶり、介入授業など―― の多くが、心血を注いだ教育実践の報告から生まれた。

    HOME      読書ノートIndex     ≪≪ 前の読書ノートへ    次の読書ノートへ ≫≫